記憶を手繰り寄せる |
夏に向かって日中の撮影を延々と続けてきましたが、最近はこれにも疲れだしていて、夕方から夜の撮影に移行しつつあります。
盆を過ぎれば8月も終わりです。暑さはまだまだ続くのでしょうが9月になれば日の短さが実感できるようになるでしょう。
ひたすら一日一日を刻むことしか考えていませんから、物事の変化もそれが過ぎたあとに気づくことが多いです。渦中にいると判らない。かつ記憶はどんどん朧気になる始末ですから、意識的に過去に思いを馳せることが必要です。
亡母の4番目の妹に昔のことを聞いています。20代に数多く行った近現代史研究でのヒアリングは主に1920年~30代のことが中心でした。まだ生を受けていませんから同時代性で感じることはありません。いま叔母から聞く話も戦前戦後のことになると同じです。昭和30年代以降になってその空気が判り始めますが空気は判っていても自分に関することでさえ知らない、あるいは忘れていることが多いです。
記憶は各人の頭のなかで好き勝手に紡がれていますからそれを解きほぐしてできるだけ客観的な姿に戻してやらないといけませんが、それを行う立場の自分の記憶でさえ物事の一面しか見ていないことに驚かされます。
物事は多面体ですから各人はそのなかの一面を肥大化させて脳に刷り込んでいるところがあって、別の一面の存在を意識することでそれがまるで異なって見えてきます。
齢のせいなのか、病のこともあるのでしょうが大事なことをことごとく忘れています。思い出せまないでいます。かつ勝手に思いこむ、解釈していることばかりです。
物事をあるがままで受けとめるのであればそうした躯の器官の衰えもことさら嘆かずに自然に受けとめればよいのでしょうがなぜか記憶に関しては執着します。そういう自我が厳然としてあります。忘れてよいことが忘れられずに忘れてはいけないことを忘れている。意思や願いとは関係なく進んでいくことをやるせないと思うべきかあるがままと思うべきか。
盆を前に旅立った方々に思いを馳せ来し方行く末を考えてみる。世間がオリンピックで騒いでいるときだからこそ自分はそれに拘りたい。要は他人と同じことをやるのが嫌なだけかもしれません。
写真は南阿佐谷。
Nikon D200 + Ai AF Zoom-Nikkor ED 18-35mm F3.5-4.5D(IF)
いつも通過している青梅街道の杉並区役所。建物一面に蔓性植物のグリーン・カーテンがあることさえ知りませんでした。しかしよく伸びています。レンズはゴーズトあるわ歪むわで・・・ズームは使うシーンを選びますね。フルサイズですと単焦点が使えるのでこうした心配も軽減できるのですが・・・